明治神宮造営において構想された風致の空間的要素と設計思想の転換

Landscape elements of Meiji Jingu in thoughts and its transition of planning concept

水内 佑輔*

Yusuke MIZUUCHI*

Abstract: It is believed that there is a deep connection between shrine and forest. Meiji Jingu’s forest that was settled in 1920, is famous for being created to aim for completion after 100 years along with the thoughts of forest ecology. This is a historical study to explore the process of the construction of the Meiji Jingu and its planning philosophy focusing on its forest. This study conducted by collecting and using primary sources such as minutes and drawings, and was proceeded by considering both discourse and physical plan. As a result, the following were clarified. Not only the forest but also the water system and landform, especially, the behind of shrine buildings were conceived as the spatial element to produces the landscape experience in Meiji Jingu, and the ideas were derived from Ise Jingu and Nikko Toshogu shrine. Then, process of the development of the physical plan in Meiji Shrine construction were visualized. In addition, that the planning theory of shrine forest before that had been   inconsistent with the conventional idea and situation, and the less of expense of the forest management were the reason for the change in the planning concept of the Shrine forest.

Keywords: Meiji Jingu, forest in shrine, Seiroku Honda, Takanori Hongo, Keiji Uehara, Chuta Ito

キーワード:明治神宮,神社林,本多静六,本郷高徳,上原敬二,伊東忠太

https://doi.org/10.5632/jilaonline.12.50
ランドスケープ研究(オンライン論文集) 12 50-61

1.            はじめに

(1)研究の背景

明治神宮の造営は造園学にとって重大な画期であることについての殊更の説明は不要であり,内苑と外苑からなる公共造園空間の創出の経験は,有形無形の産物を造園学にもたらした。こと内苑の森は造園学の産物であるが,明治神宮といえば森というイメージも定着している[i])。神社と森の関係についてみれば,両者は不可分の存在であり,むしろ森こそが不可欠な要素であって,古くから禁足的に丁重に扱われ,その結果として地域の本来の植生が神社の森に残されているとの考えがある[ii])。すなわち手つかずの森が神社には残されており,関東地方以南においてそれは極相林に該当する常緑広葉樹林(照葉樹林)であって,それが神社の森の本来の姿であるとされる[iii])。このことからすれば,明治神宮と森の強い結びつきのイメージにも肯かれる。現在,常緑広葉樹が優占する「畏敬の念を抱かせる森」[iv])が眼前に広がり風致が演出されているが,その実,人の手でつくられた驚くべき存在であるとして語られる[v])。この森の設計思想や経緯について,一般に知られているものとしては,明治神宮造営局技手であった上原敬二による著述がある。これによれば,おなじく造営局参与の本多静六,技師であった本郷高徳ら[vi])と共に造営直後に荘厳な風致を実現すると同時に,神社に相応しい風致を永続させるため,「永遠の杜」をコンセプトに,植生遷移や適地適木など林学的な考え方を援用した方針のもと100年後の完成を見越した計画によって造成されたとされる[vii])

*東京大学大学院農学生命科学研究科

ところが,神社の森に対して神聖・不可侵のイメージが付与された契機として明治神宮の造営を位置づけ,神社の森の空間像がそれを支える価値観自体と共に変化したとの指摘が歴史学からなされている[viii])。畔上直樹によれば,造営以前においては針葉樹林を理想とし人為の介入を肯定していたものから,郷土樹種の天然下種更新という人為の介入を排除した禁伐的な森林管理による極相林が森のあるべき姿とされたとされる。価値観についても,神社林を社殿の装飾装置として位置づけるものから,森の自然性が神社の神聖性に重ねられたうえで,神社林そのものに価値が見出されたとされる。明治神宮での経緯をなぞれば,従来,神社の森としての通念であったスギ林は,都市立地という明治神宮の環境下においては健全な生育が難しいと想定された。この課題に対して出された解答が極相林を目標とする常緑広葉樹による森であったが,これは明治神宮という特殊解にとどまらず,その後造園学の学術的輪郭が整えられていく中で,神社林一般へ展開されたというものである。実際,当時は記念事業や観光開発によって風致の改善や神社林の改良・造成が行われており,その中に造園学徒の関わりも確認でき[ix]),学術的原則が必要とされるに十分な社会的需要も存在した。このように現在の「鎮守の森」通念の出自[x])明治神宮の造営に求めるというものである。

畔上の考えを裏書きするように,造園学においても,近世には神社の森が必ずしも禁足地ではなく,資源利用がされていたこと[xi])[xii])や,明治期の資料から神社の森が針葉樹中心であること[xiii])が実証されている。また「鎮守の森」という,神社の伝統性や神聖性を示すものとして定着している言葉についても,近代に出自があり,西欧文学的心性のもとに農村風景の描写を意図して創出された言葉であることが明らかにされている[xiv])

以上をふまえれば,明治神宮の造営時に「永遠の杜」が目指されたこと自体は当然のことではなく,そこで提示されたものは神社の森としては極めて新奇なものであり,価値観の変化なしには起こり得なかったこという指摘に説得力がある。しかし,なぜこういったドラスティックな変化が生じたのかについては,未だ明らかでない。ひとつの見立てとして,社会通念上の雑木を明治天皇の記念に相応しいものとして肯定する価値観が必要であり,このため学術的に裏付けられた自然性に価値が見出されたという見解も出されているが[xv]),検討の進展が待たれる。

(2)研究の目的

明治神宮の森の設計思想についての議論を進めるためにも,明

表-1
神社奉祀調査会委員

治神宮造営というプロジェクト全体からみる視点もまた必要であろう。そもそも明治神宮内苑の造営は,1913年から1920年にかけて明治神宮造営局とその前身になる神社奉祀調査会によって執り行われており,政官財界で大枠の決定が先導され,技術サイドの知見によって具体化していくという過程で進展した。森も明治神宮の風致を演出するための空間装置の1つであり,明治神宮の林苑[xvi])の設計思想についての考察を進めるためにも,本多らがどういった依頼や要求を受け,工学分野との協働や園林対立を経たうえで,どのような林苑を構想し,具現化していったのかというプロセスを明らかにすることが必要であると思われる。

そこで,本研究では明治神宮造営において構想された風致を演出するための空間的要素,その設計思想と系譜,林苑の計画の展開経緯を明らかにする。これらの作業をふまえて,明治神宮の造営にあたって神社風致計画論の構造転換を生じさせた要因や明治神宮と森の関係の考察を行う。

(3)研究の方法と先行研究のレビュー

 本研究ではまず明治神宮の創建というプロジェクトで風致が最初に議論された鎮座地の選定を取り扱う。この議論は神社奉祀調査会(以下,略称を調査会とする)(表-1)で行われたが,選定は「風致」と「由緒」を基準に二段階で行われており,東京への絞り込みには由緒が優先し,東京府下での絞り込みには風致が優先したことが山口輝臣[xvii])や大丸真美[xviii])によって明らかにされている。また,社殿の設計のほか明治神宮の創建に一貫して中心的な役割を果たした建築学の伊東忠太が候補地の1つであった飯能(埼玉県)を高く評価していたことや,本多が都市鎮座に強硬に反対したことなどが明らかとされている。この他,今泉宜子[xix])は造営に関わった要人の西洋体験を基軸に明治神宮の造営経緯を明らかにする中で,調査会での議論について言及している。本研究では調査会での議論の推移を追いながら,これまで議論されていない鎮座地の選定において比較考量された風致の空間的要素について,2章では基礎的知見を提供した伊東の神社風致観に焦点を当てながら検討を進める。続いて,3章では本多ら造園学関係者の神社風致観の検討を行う。

 次に,明治神宮の造営において神社風致計画論の構造転換が生じた経緯を明らかにするべく,4章及び5章において本多の造営における設計思想とその思想的系譜を取り扱う。明治神宮の森の設計思想と経緯については,これまでにも松井光揺ら[xx])によるものをはじめ多数あるが,設計思想の構造転換に言及したものは,先述の畔上による一連の研究である。畔上は明治神宮の森の造営において最重要課題であったとされる煙害への対応のみでは,常緑樹の森という発想にはならないことを明治神宮の造営以前の本多の神社風致論から論じている。また,上田裕文[xxi])や清水裕子ら[xxii])は本多らの思想の背景にある技術的系譜とその展開について言及しているが,これらをもってしても明治神宮の造営においてなぜ神社風致計画論の構造転換が生じたかについては議論の余地がある。こういった状況の中で近年,林苑造成中に作成された資料である『明治神宮内苑林苑部実施設計』[xxiii])の発見・公表があり,これらをふまえつつ検討を進める。加えて,本多らが風致を演出するため,林苑全体としてどのような空間的操作を試みようとしたのかについても検討を進める必要があるが,6章では林苑のフィジカルプランについて,その骨子でありながらも断片的な紹介に留まっていた苑路と社殿配置の展開についてを明らかにする。

具体的な作業としては,公式な資料である『明治神宮造営誌』をはじめとして,『明治神宮叢書第17巻』や国立公文書館,明治神宮所蔵の議事録,記録資料,図面などの一次資料や新聞記事,造営関係者の言説を収集し,読み取りを行うこととした。そして稿末に,明治神宮造営や造園学の構築に関わる主要な出来事や言説について出典と共に附表として示した。

2.            鎮座地決定までの神社奉祀調査会の議論における風致

(1)鎮座地の決定までの経緯

明治神宮の風致は「森厳」「幽邃」,すなわち「厳か」「清らか」であるものと表現される[xxiv])が,山口によれば,まだ創建自体が決定する以前から明治神宮は「雄大」「荘厳」「清浄」であるものと広く観念されていたと指摘されており,この基層となるイメージは伊勢神宮であったとされ[xxv]),1912年 8月 3日の新聞記事[xxvi])にも「第二の伊勢大廟の如き崇高幽玄の霊域となすべし」とある。造営を通じて「厳か」と「清らか」は一貫して動くことのなかったコンセプトであり,それをいかに空間的に実現していくかが造営の課題であったといえる。調査会においてはまず鎮座地の選定時にその議論がなされていた。経緯をみれば,実質的な初回の議論であった第2回調査会時には早くも東京府下へと鎮座地が決定し,その後府下での鎮座地については内務省中心に専門家の見解をまとめ,調査会が一応見る方針とされた。その後,第4回調査会時に陸軍戸山学校,青山練兵場,白金火薬庫跡との比較考量のうえ,代々木御料地(南豊島御料地)と決定した。そして専門家として第3回より伊東が出席している。他の技術的専門家に先駆けての登場であった。そこで,明治神宮の風致はどのような空間的要素によって実現されると考えられていたのかを,伊東の言説に着目しつつ,調査会における議論を見ていきたい。

(2)伊東忠太が理想とする神社風致を構成する空間的要素

東京以外の候補地の「風致」については調査会では具体的に査定されていないのであるが,伊東は明治神宮鎮座直後の1920年著述の『明治神宮の社殿の建築に就て』[xxvii])において「只神社の風致体裁を主とするならば飯能は絶好の敷地」であると飯能を高く評価している。そこで,伊東の求める神社風致という観点から,その風致を構成する具体的な空間的要素についてみていきたい。

『神社奉祀調査特別委員会報告』[xxviii])には正式な建議・請願のあ

第3回神社奉祀調査会におけると社殿の位置と御苑を巡ったやり取り 原敬「そうすると御苑が皆潰れて御苑の一部に建てることになりますな」伊東「左様です…」「御苑に建てられぬとすると余り感服するわけには行かぬ」伊東「無理なことになります,せっかくの森林を利用することが出来ないことになりますから」
図-1 第3回神社奉祀調査会時の社殿位置推定図

った14ヶ所が候補地としてリスト化されている。飯能朝日山はこのうちの1つである。飯能の請願の特徴は,敷地面積,立木数,鎮座予定地の地図や断面図,写真が添えられるという具体性の高さである。立木は「檜,杉,松,雑」で区分されており,合計58,470本があり,「地域樹木繁茂し且将来大森林」が出来るとしている。また,「伊勢大廟に則るの設計を成し得」とあるように,伊勢神宮を明確なモデルとして,五十鈴川による神域の区画と神路山による囲繞という立地特性をふまえ,それぞれを入間川と朝日山にたとえて「幽邃森厳にして神聖」な候補地であると訴えられている[xxix])

御苑

伊東は飯能を高く評価したのであるが,具体的な空間的特徴をみると「後ろに山岳の背景を有し,神社として必須欠くべからざる水流にも樹林にも富んでいる」と述べており,「森林」だけでなく,背景に山岳を持つことや水系の重視がわかる。伊東自身による伊勢神宮をモデルとする直接の言及は確認されないものの,神社の立地環境として背後の山岳,森林,水系が重要な要素であるとの認識があり,これを念頭に飯能の風致を評価したとみてよいだろう。

(3)初期の神社奉祀調査会での議論にみる風致の空間的要素

第2回から第4回調査会にかけて各候補地が比較考量されている[xxx])。第2回には奥保鞏委員によるスギやヒノキの巨木を理想に,煤煙などの周辺環境に対する懸念のほか,井上友一幹事による植樹の観点から代々木と青山を比較し専門家の調査を要するなどとの発言があるが,議論された風致は森林だけではない。例えば,「少し高い所を欲しいと思えば,戸山学校の如きは仰ぐに宜しい」とあるように敷地内の地形についても議論されている。

伊東の著述や造営誌の記述順序を見ても,第一の候補地は戸山学校であったようである。第3回調査会において現地調査の上,伊東は各候補地の適不適を説明しているが,戸山学校については「西南の隅から北東の隅に川があります」という水系の説明から始め,「箱根山という大きな山」の存在に触れた後,敷地内の樹林について言及している。場所について「若し社殿を造るとしますれば,此辺を背景として此辺に造るが宜しかろう」と具体的場所を示して述べている。文字だけでは「此辺」が不明なものの,「南西隅即ち学校所在地には,箱根山等の小高き丘ありて,敷地内にて最も高く,而かも高さ三間余の土塁に古松列立して,下界の汚物を遮断し,北境には廻り八尺以上の老杉も十数本聳立せり…社殿造営には頗る好適の地なりと雖も…」という造営誌[xxxi])の記述を見れば,箱根山を背景に囲繞される地を社殿に最適と考えていたことが分かる。青山練兵場について,伊東は交通の便以外に利益がないと否定的である。その上で「人工で高低を造り森林を造るという事になりますとなかなか費用が掛かります」と述べている点には注視したい。白金についても社殿の背景の「体裁が誠に悪うございます」とし,適した場所が無いことを述べる。造営誌には社殿の背景と考えうるものとして「老松雑木の鬱蒼たる高地あるのみ」であるが,敷地狭隘でありかつ北面の社殿となり,かつ「樹木は椎其他雑木多くして風致を欠き」不適であるとされる。

第2回調査会時で最も有力な候補地であった代々木については造営誌にて「東京近郊にて最も廣闊幽邃の地にして,土地の高低変化あり,而かも御苑林泉の美自ら神域たるに適し」とされる。第3回調査会において伊東は「一体平地で大体に於て高燥な地形」と概括し,立派な松林があると紹介する。社殿の立地については「此処が一番高い所です…是だけが高い所で,こちらへ下っております,そうして樹木も此処が一番多い」として場所を示している。この具体的な場所について,会長・原敬が御苑が潰れると述べていることのほか,後掲する伊東の特別委員会時に提出した第一案(図-6)から判断して,図-1の位置にあったと考えられる。また,井上幹事が御苑の池泉を御手洗に使う構想があることを補足している。伊東も代々木が本意であったわけでなく,1920年には「高低の変化の趣は十分とは云えぬ。相当の松林や杉並木,其の他多少の巨木があるが概して樹木が若い…社殿の背景たるべき山岳又は大樹林が無い」と評している27)。最終的には1914年2月8日の委員の青山・代々木の視察を経て,同年2月15日の第4回調査会で南豊島御料地(代々木)へと決定した。その際には,候補地の標高が比較され,代々木の優位性も確認されている[xxxii])

以上の経緯にみたように,神社の立地環境として背後の山岳,森林,水系が重要な要素であると認識する建築学者・伊東忠太の知見を基に各候補地が比較検討されたことからわかるように,明治神宮の風致の対象となったものは樹林のみではない。森林についても,神社の風致として相応しいと考えられているものはスギ,ヒノキの巨木であり,あるいはマツであること,シイは雑木で風致に欠けるものとみなされていたことがわかる。

3.            本多静六の考える神社風致に関する空間的要素

(1)造営参画以前の本多静六の神社風致観

本多が明治神宮の都市立地に対して反対した点については既に明らかとされているが,その理由としては古杉老檜からなる「針葉樹の完美なる森林」が都市部では煤煙によって成立しないという点に焦点が当てられてきた[xxxiii])。改めて本多の言説を見てみれば最大の理由は針葉樹林が成立しないことであるが,鎮座地の選定にあたっては「天然の地勢殊に天然の山水樹林の関係」を第一に重視すべきでありとし,多摩川,荒川の水源域の山林の「山幽邃にして奇に水明らかにして妙…山容水態老樹古石の自然美」を利用出来る地が適切であるとするように,針葉樹だけを問題としているわけではない[xxxiv])。この荒川の水源域にあたる飯能の請願については先に触れたが,本多は最初の請願が出された前年の1912年5月8日に「飯能遊覧地設計」とした講演を行っており[xxxv]),飯能に関係があったことのほか,都市立地反対論の請願への本多の影響が指摘されている8)。1913年12月の明治神宮候補地の1つとして飯能を紹介する新聞報道には「本多林学博士の設計によると適当な工事を施せば神宮の近く迄車馬を遣り得る」という記載がある。報道内容が正しければ,本多は請願に関与しており,飯能に一つの理想を見出していたと言える。

(2)造営以前の造園学関係者の神社風致観

1)本郷高徳の造営関与以前の神社風致観

1912年8月9日には鎮座地を青山練兵場とした前提で「明治神宮の樹木は何を植うべきか」という本郷の言を伝える新聞記事がある[xxxvi])。主旨は樹種についてであるが,「社地林たる以上必ず喬木でなければならぬ鬱蒼たる喬木林」である必要性を述べるほか,「あんな平地よりは多少高低のある山がかった所を選びたい」と地形に関する記述も見られる。

2)長岡安平の神社風致観 

東京市の長岡安平は直接明治神宮造営に携わってはいないが,1913年12月には明治神宮神苑に植え付ける苗のストックについて宮内省より問い合わせを受けるほか[xxxvii]),外苑造営にあたっては福羽より推薦される[xxxviii])などしており,当時における有力な造園家として取り上げておきたい。1912年8月の新聞記事の主旨は神宮奉祀の地としての青山の否定と公園と神苑の違いであり,参拝者に自然と崇高敬虔の念を抱かせる空間づくりが必要であると主張される。そのための空間的要素は「丘陵,老樹,清冷なる泉水其他俗塵を離れしむる神々しき趣の備わった地」であるとされる[xxxix])。この他,神苑の作り方として,四神説に従うことを妥当として,「東に水流れ南に池あり,西に大道を有し北に山の聳ゆるを理想」とし,なるべくこれに近いものとし近代的趣味を加味すると述べられる[xl])

以上のように造営前の林苑関係者の言説を見ても,必ずしも樹林だけを問題としておらず,立地や地形,水系に関しての言及が見られる。

4.            鎮座地決定後の神社奉祀調査会での議論における風致

(1)鎮座地決定後の経緯と本多静六の登場

社殿の様式や参道の形態についての活発な議論があったことについては既に指摘のとおりであるが[xli]),それらの議論の際に誰がどのような風致を作り出そうとしていたかが本研究の主眼であり,まずはその経緯を見ていきたい。なかでも造営に対して本多らの関与の仕方については明かしておくべき課題である。

第4回調査会(1914年2月15日)で鎮座地の決定後,1914年4月2日に上奏がなされ,鎮座地が正式に内定した。先に見たように,政財界から構成される調査会は専門的事項を伊東に諮問しつつも,鎮座地を決定する主体であった。しかし,第5回調査会以降においてその性格と人員が大きく変化した。1つはシーメンス事件による倒閣の結果,調査会会長が首相兼内相の大隈となったことや,新規委員の増員と内部に新たに設けられた特別委員会が活動の中心となったことである。新規委員として任命された渋沢栄一の女婿でもある阪谷芳郎東京市長を特別委員長としつつ,同じく新たに任命された歴史学や建築学の専門家によって特別委員会が構成された。調査会は総会と通称され,特別委員会での議論を承認する場となった。特別委員会では15項目が審議されている。造営誌によれば,社殿や林苑に関する専門家は伊東のほか,関野貞(建築学),近藤虎五郎(土木学),福羽逸人(園芸学)であった(表-1)。福羽には専門家としてだけでなく,代々木御料地を所管する宮内省内苑頭として実地に対する知見や調整も期待されていたようである[xlii])。1914年5月1日から集中的に特別委員会が開催され, 同年6月9日の第10回特別委員会で報告書をまとめ,その結果を同年7月2日の第6回調査会と同年7月6日の第7回調査会で特別委員会案の報告と審議がされている。調査会に諮る際には伊東が説明を行っており[xliii]),社殿や敷地に関して中心的な役割を果たしていた。特別委員会報告資料[xliv])の『造営計画要項』を見れば,南からの参道を正参道とし,本殿は「中央部最高の地点において南面」するものとされる。さらに「今千年の老樹なく鬱蒼たる叢林なく以て神苑の森厳を加うるものなきも今より適宜に植樹を行はば以て他日の偉観を期すべし只目前の小成を計りて所謂盆景的の小工を弄することを避けざるをべからず」として,植樹とその方針についての記述が見える。

『神社奉祀調査会経過要領の一』[xlv])には,この時点での15項目の審議結果がまとめられているが,社殿の様式について詳述される一方で,「境内及び参道に関する件」については,「周囲に濠,土塁又は適当の障屏を繞らし境界線には常緑樹を密植し以て神域の保護を計り境内は自然の高低に依て多少の工を加え適当の樹木を植栽し力めて天然の趣を作さんとす」とされるが,「樹種の選択等については更に専門家の調査に待つを適当なりと思惟す」とされ,この時点ではまだ確定していない。報道においても第10回特別委員会の翌日1914年6月20日には「林業の専門家に嘱託して杉檜等適当なる常盤木(ときわぎ)を移植すべき計画なる」[xlvi])と報じられている。

 この経緯を経て1914年7月10日に本多と川瀬善太郎(林学博士)が調査会委員及び特別委員に任命され,調査事務を嘱託されている[xlvii])。翌7月11日に特別委員会が開催された。内容と出席者について資料によりやや異同はあるが,総合すれば阪谷,井上,伊東,川瀬,本多,久保田政周東京府知事,堀田貢内務省会計課長らによって,予算や道路,植樹の件について議論がされたようである[xlviii])。献木については,井上の発案とされるが[xlix]),この特別委員会時に決定されたものと考えられる。1914年8月には本多・川瀬の現地調査[l])が行われ,10月29日に最後の特別委員会が実施され,11月3日の第8回にして最後の調査会で特別委員会の決定通りに(一)社殿様式(二)設計内容(三)内苑考案の細目について議決された[li])。この結果を受けてまとめられた『神社奉祀調査会経過要領の二』45)には,植栽樹種,参道,苑池などについて記した『内苑計画考案』や献木樹種の条件や表についてが掲載されている。

以上の経緯に見るように,伊東の主導でまとめられた敷地計画がまず存在したこと,その上で樹木による神域の保護や天然の趣を設えるための専門家として林学者・本多静六と川瀬善太郎が明治神宮造営に参入したこと。そして,第7回調査会の翌日1914年7月7日には「表土を改良せば杉檜の如き常緑樹(ときわぎ)も生長すべきを以て約三十万本の杉檜を植うること」が決定されたと報じられている[lii])ように,風致を担う植栽樹種はスギ,ヒノキであることが当然とされていた。また,本多と川瀬には植栽樹種の選定が要請されたのであるが,本多は樹種だけでなく,参道や苑池についても積極的に意見を述べていたことがわかる。

ところで,本多と川瀬の委員任命日について,造営誌では1914年6月2日,『神社奉祀調査会経過要領の二』では6月22日となっているが,公文書にある7月10日が正しいものであろう。

(2)本多静六の『内苑計画考案』

1)『内苑計画考案』における植栽樹種

次に本多の明治神宮の設計の第一次案である『内苑計画考案』の中身について見ていきたい。「内苑計画の本義は神苑たるに相応しき幽邃森厳なる風致を作るにあるを以て可成天然の趣を存し小工を弄せさらし」から始まり,(一)全体の計画(二)周囲の設備(三)参道(四)苑内道路(五)樹林の配置(六)苑池(七)給水と項目立てされている。(一)全体の計画については「別に定める図面の通りとす」とあり,(五)樹林の配置には「第一区」などと出てくるが,これらは伊東主導で作成されたと思われる後掲の『明治神宮境内及附属外苑之図』(図-8)と整合しており,先の経緯からしても伊東案を前提に作成されたと考えられる。また,『内苑計画考案』は『神社奉祀調査会経過要領の二』に掲載されたものと『明治神宮叢書17巻』に収録されたもので内容が若干異なることが確認されたが,植栽樹種についての記述が興味深い。まずは公文書である『神社奉祀調査会経過要領の二』に掲載され

図-2『内苑計画考案』にある土塁上の植栽模式図
A『経過要領の二』収録                   B 特別委員会報告資料明治神宮叢書17巻収録      

た最終版から見てみたい。(二)周囲の設備には土塁の上には「いぬつげ」が適すること,土塁の内側斜面には「常緑樹」(図-2 A)から見れば針葉樹)を植えつつ,防火防塵防音に有利な常緑樹(図-2 A)から見れば広葉樹)を「風致を損せさる範囲」で植栽するとされる。また,(五)樹林の配置には「社殿後方一万敷千坪は之を第一区とし背景として適宜小丘を築き密林と為す此にすぎ,ひのき,ひば,ねづこ,つが,もみ,かや,あららぎ等を補植す」とされ,「土質改良費」が見込まれている。第二区と第三区は「第一区と同種の樹木を稍々疎に補植す」とされる。道路の両側の植栽樹種については「高三間内外のすぎ,ひのき,くす,かし,しい等を植栽し,その下には矮生陰樹を植ゆ」とされ,御垣内には「くす,かし,しい等を適宜に植栽す」とされる。

のちの「林苑計画」にみるような植生遷移や天然更新などの考え方は前面に出ておらず,最も重要視される社殿の後背林についても,スギを中心とした針葉樹の植栽が提案されており,煙害などに弱いこれら樹種の防御植栽として常緑広葉樹が選択されるという『社寺風致林論』[liii])で主張される明治期の本多の神社風致計画論の一例ともいえるものである[liv])。スギ,ヒノキの針葉樹を林冠木としつつ,「くす,かし,しい」の混植という構想は,1912年の本多による伊勢神宮の林況の説明と類似しており[lv]),やはり伊勢神宮が念頭にあったのではないかと思われる。かつ,造林学的見地から混淆林は推奨すべき林相[lvi])であった。

最終版に至る前の特別委員会版の『内苑計画考案』[lvii])では針葉樹の存在感は更に強く,土塁の内側斜面の図は針葉樹のみである(図-2B)。この版は1914年7月11日特別委員会に際して用意され,その後8月の現地調査を経て部分修正がなされていったものと思われ,現地調査の結果,より耐煙性の強い闊葉樹を加えるよう修正していったのではないだろうか。さらに本多は,都市立地反対論33)においては「針葉樹は遠からず市中に其影を亡い」としていたが,この土塁と防御植栽によって針葉樹も煤煙に対応可能であると判断したものと考えられる。また,他に特別委員会版から最終版にかけて削除されたものとしては,苑地の西北部に鹿苑を建設するという案のほか,各施設の必要経費についての記述がある。

2)『内苑計画考案』における神社風致のための水系や地形

 先に造営関係者の神社風致観や,伊東の旧御苑の池泉や清正井の御手洗化について見たが,『内苑計画考案』においては水系に関する壮大な構想が披露されている。(七)給水では,苑内の西北隅に「溜井を試み…電気喞筒を以て之を地上に導き貯水池を作って之を貯へ其の水は北池に導き一半は社殿の周囲を繞りて南池に注がしむ」と記述される。1940年に本多は日光をヒントに「参道にうるおひを持たせる必要」や防火のために参道両側に水の流れや滝を構想したことが語られている[lviii])(図-3)。また,「伊勢の五十鈴川や日光の大谷川に比較すべき神橋を架ける流れを作る」ために適地を物色したことも語られている。参道脇の水流や滝は結果として実現には至らなかったが,水系を神社風致のための重要な要素として考えていたことが分かる。そして,山を背負うことは立地上不可能であるが,「背景として適宜小丘を築き密林と為す」とあるように,社殿の後背部分の地形に関心があり,この時点で盛り土の構想があったことが分かる。

3)小括

 以上に見たように1914年の『内苑計画考案』時点では,先に見た本多の神社風致観に符合するように,森だけでなく,水系や地形についても操作の対象として構想されていた。その際には伊勢や日光が参照されていた。本多は伊勢については1912年に『神宮域内山林及ヒ神苑ニ関スル意見』[lix])を,日光については1912年に『日光社寺境内風致及並木保存法講演筆記』[lx]),1914年6月に『日光一帯の山水風景利用策』[lxi])を講演しており,それぞれ具体的な体験があり,明治神宮の林苑設計への影響が見て取れる。また,森についてもスギを中心とした針葉樹の植栽が提案されており,明治神宮の林苑設計において,ただちに植生遷移や天然更新による森が構想されたわけではない。さらに言えば,この時点では常緑広葉樹は風致を棄損するものとして捉える考えもあった。必然的に,畔上が指摘するように,なぜスギを中心とした針葉樹の森の構想が「臨界点」を迎え,全く違った価値観によって林苑が構想されるに至ったかが関心の対象となるが,その検討のためにも造営以前の本多の神社風致計画論から検討したい。

5.本多静六の神社風致計画論とその展開

(1)『社寺風致林論』の位置づけと先行研究の見解

 造営以前の本多の神社風致計画論が明示されているものとして,1912年7月に著わされた『社寺風致林論』53)がある。畔上8)は『社寺風致林論』においてスギ,ヒノキが神社林の理想とされていること,明治初期の社寺林禁伐措置政策に対して,適切な伐採利用とその後の植栽が必要であることが主張されていると整理しているほか,その政治社会的な影響力について明らかにしている。一つは明治末期には従来放置されてきた「村の鎮守」も行政指導体制下に組み込まれ,それらの神社林も整備の対象となってきたことであり,その指針として本多の『社寺風致林論』が全国で参照されていること。また都市部では煤煙により社寺林の枯損が目立つこと,東京府ではそれに対応した『社寺風致林取扱法』[lxii])という文書が作成されており,本多の談話記事との一致が数多く確認されるものであって,煤煙に強い樹種を防御植栽としたうえで,針葉樹の中では煤煙耐性を持つクロマツ,ヒノキの植栽が推奨されており,照葉樹の重要視が全くないことを指摘している。その上で,明治神宮造営を契機として,「名所旧跡神社風致論」から「森林美学的神社風致論」[lxiii])へと転換したこと,具体的には社殿の装飾装置としての森から,森の自然性に神社の神聖性を重ね,森そのものに価値を見出すという転換があったとしているが,その直接的契機については言及されていない。

(2)造営以前における本多静六の神社風致計画論の森林経営的発想とその限界

 ここでは『社寺風致林論』における風致の持続のための経営的発想と神社風致計画論が内包する限界について指摘したい。『社寺風致林論』は文頭において社寺風致林についての研究がないこと,「先頃二三の神社の風致林を観察しこれが実地経営法」についての講演を材料として学術的に組み立てたものと表明される。「二三」とは先にみた伊勢神宮,日光の二社に加えて,吉野神宮(吉野公園)であり,これらの事例をもとに帰納的展開をしたものであるが,社寺と構えつつもその事例対象は全て神社であった[lxiv])。『社寺風致林論』を通底するものは風致林の維持方法として放置的保護

 
図-4 林内の見透かし防止の概念図『社寺風致林論』第一図
図-3 日光東照宮参道2019年1月30日筆者撮影 
 
図-5 見透かし防止事例としての日光東照宮『社寺風致林論』第七図

の不適切性という現状批判と,永久に風致維持を実現する手段としての造林学的知見を援用した人為による介入方法の解説,それを支える経営的発想である。具体的には社寺の風致林として優れた伊勢,日光のスギの美林も『日本森林植物帯論』[lxv])に論じられる森林生態学的知見に従えば天然林ではないこと,多くの風致林は社寺の建築や費用捻出のために伐採された跡地に「人工」によって植栽されたものであるとする。その上で如何に人為を加えて「理想的林相」へと改良するかについて,造林学的知見から解説される。まずは目標とする「社寺風致林の理想的林相」を見ていきたい。

「何事のおわしますをは知らねども難有さに涙こぼるる」として,社寺は「神聖幽邃荘厳」であるべきであり,そのための空間的条件は「社寺の後方及び両側の三面は四季を通じて神聖幽邃荘厳にして所謂神々しき状態を保たしむる」こと,すなわち(イ)社寺の前面を除き四季を通じて森林によって囲繞されること,特に社殿後方の林内の見透かしを防ぐこと,(ロ)鬱々蒼々天を衝く慨ある常緑の喬木があることとして図-4と共に示されている。林内の見透かしを防ぐためにスギ林の下木としてイチイ[lxvi])を植栽している事例として日光東照宮が図入りで示されている(図-5)。この点については後述するが,併せて社寺の建築に供するものや木材価格の高いものが適当であるとする。中央日本においてこれを満たす樹種として「杉,扁柏(ヒノキ),ヒバ,ネズコ,コウヤマキ,マキ,コウヨウザン,樟,カシ類,第二に赤松,黒松,樅,ツガ,ナギ,花柏(サワラ),アララギ(イチイ),タブ等」が挙げられている。クスノキやカシに関する言及はあるものの,後述の如くその主眼はやはりスギ,ヒノキ等の常緑針葉樹であり,東京附近の社寺林はスギやマツが一般的であるとし,スギ林を前提に林学的知見を導入した改良方法が説かれている。

社寺の風致は永久に維持されるべきであるが,長命といえども樹木には寿命があること,現状のように枯死後に放置すれば,「雑木,悪木」が生じ風致を棄損すること,そのため後継樹の養成の必要性が説かれる。そして,「老杉内」においては,スギは陽樹であるため更新は難しく,耐陰性のある常緑針葉樹が適しており,具体的な補植樹種としてはヒノキ,サワラ,コウヤマキ,ヒバが適していることが説かれる,また,苗木にしても普通造林用の苗木を養生し4,5尺(約1.2~1.5m)の大苗植栽の必要性や,施肥方法,除伐間伐を前提とした苗木の密植,木材利用を前提とした枝打ちなどについて解説される。

本多の基本的な姿勢として経営面への言及が多々見られるが,それは問題に対して,技術・実践の両面からなる問題解決方法を提示しているということでもある。風致林の維持のためには必然的に相応の経費が必要とされる中で,その捻出のためには,風致を棄損しない範囲で木材利用することが妥当となる。その観点から論を展開し,枯損を待つよりも積極的に伐採搬出したほうが合理的[lxvii])であるという林業経営的発想がもたらされ,社寺に相応しい樹種に用材としての価値が付加されたといえよう。それは多くの社寺林がスギ林である状況からも裏書きされるものでもあった。

このように,『社寺風致林論』で説かれる神社風致計画論は,林内の見透かしを防ぐことや,皆伐をせず多層林を目指す施業であり,放置的保護という現状に対して積極的な森林施業を促すものであった。さらに,先に見た『内苑計画考案』における社殿後背林の樹種は,『社寺風致林論』における神社林としての適切な樹種と合致しており『内苑計画考案』はこの発想の延長線上に考案されたこと,スギ,ヒノキを林冠木とし,下層木に見透かしを防止するためにアララギ(イチイ)を配植する社殿後背林が構想されていたであろうことを指摘できる。

ところが,本多の神社風致計画論には明白な限界も指摘できる。「老杉古檜」として並列的に扱われることもありつつも,神社に相応しい樹種の通念はスギであった。しかし,『社寺風致林論』に従えば,将来的な主林木はヒノキへと転換されることとなる。このように,明治神宮造営以前の本多の神社風致計画論は陰樹陽樹といった林学的知見と神社林の実態を含む通念との間に部分的な齟齬が内包されるものであった。

この林学的知見と神社林の通念の齟齬は,前述の1912年の本郷の言説にも見られる。「明治神宮の樹木は何を植うべきか」と題され[lxviii]),青山練兵場鎮座を前提としているが,まず神聖崇高のためには「鬱蒼たる喬木林でなければならぬ」とされる。そして,陰樹陽樹の違いが神社の神聖性に影響するとされ,陽樹が多い靖国神社は崇高・森厳の感が浅く,一方で「郊外の祠は杉の如き,檜の如き陰樹が多い,松の樹は常緑樹ではあるが陽樹なるが故になんとなく陽気な感じが起こる」とし,神社は神聖崇高の感を与えるために,「常緑樹で且長大な陰樹を選ばねばならぬ」とする。そして,具体的な最適樹種としてヒノキとコウヤマツを挙げ,次に「此処には少し寒すぎるが楠の如きもよかろう,樫,椎,樅」が適するとする。スギについては,マツやウメと同じく変化を付けるために植栽すべき樹種として紹介されている。とはいえ,神社の風致を森厳・荘厳とし,その維持という観点からヒノキとスギを比較すれば,整形的な樹形という点で,また枯枝の落枝が早いため,枝下高の高さを確保しやすいという点でよりスギの方が相応しいと考えられる。

畔上は明治神宮の都市立地という条件によって,本多の名所旧跡的神社風致論が臨界点を迎えたとしているが,そもそも計画論としての限界性が内在していたのであり,発想の転換の余地を残していたことを指摘したい。

(3)本多静六の神社風致計画論の構造転換の要因

1)明治神宮型林苑計画の着想の時期

 次に,本多の神社風致計画論及び明治神宮林苑のコンセプトがどのように転換したのかについて検討したい。造営局体制下では本多と川瀬が参与に,上原は技手に任命された。本郷は農科大学講師と千葉県立高等園芸学校における「庭園学」の講師を勤めていたため,1917年9月までは技師に任官せず,嘱託という形で参画していた[lxix])。本多の造林学教室において関係者の協議が開かれており,実務的な部分を本郷や上原が担い,本多がまとめるという体制であった[lxx])。その中において,植生遷移を織り込み天然下種更新によって永続する林苑というコンセプトがいつ考案されたのかである。管見において明示的に示される資料は『明治神宮内苑林苑部実施設計』[lxxi])である。作成日について沖沢幸二は1915年7月14日以降であり,1916年2月頃の可能性が高いとしている。1915年2月には内務省神社局の中屋技師[lxxii])により測量が実施されたとの新聞報道がある[lxxiii])。それらの成果と思われるものが,1915年4月に製作された『神宮敷地現在林況図』[lxxiv])であり,また1915年3月中には「実地設計」がまとめられる予定との報道もあることから,1915年3月前後から明治神宮型林苑計画が着想・具体化していったと見立てが出来る。

2)明治期の神社風致計画論からの離脱の要因

続いて,改めて明治神宮造営というイベントで本多らに与えられた条件を見ていきたい。当然ながら,明治天皇を記念するに相応しい森の創出だけでなく,永続的にその風致を維持することが重要な課題となる。林学者である本多は林相の維持という点をよく意識しており,先に見たよう『社寺風致林論』においても風致林の維持のための継続的な人為の介入とそれを支えるための木材利用を前提とした林業経営的発想が提示されている。しかし,明治神宮においてはその性格からして木材利用が困難な上に,本多らが直面したのは,植栽樹木の経費の非計上という十分でない造営予算,かつ6ヶ年の事業であって,その後の林苑管理体制も不透明な状況であった。つまり,補植をはじめ適切な森林施業の実現は困難であったといえる。土塁上の植栽樹種としての「イヌツゲ」については,煤煙に強い陰樹である上に,「刈込や手入れの労が少ない」ことも樹種選定の理由であると明言される[lxxv])ように維持管理も含めた経費面は重要な問題であった。

3)主林木の選定を巡る言説の比較から:永遠の杜と適地適木

 次に明治神宮の立地環境である。しかし,スギ林が成立しない環境条件についての力点や理想の林相については,林学系の林苑関係者間においても見解が異なる。本郷は1921年の『明治神宮御境内林苑計画』においては,理想はスギ(ヒノキ)林としつつも,「周囲の危害殊に煙害に対する関係上,すぎ,ひのき等を主林木とする神林を永遠安全に維持することの不完全」と述べ,代替として将来の主林木を「かし,しい,くす等の常緑闊葉樹と定め」たとしている。他方,1970年代の回顧的記述ではあるが,上原敬二はスギ林が成立しない理由を土壌水分条件から説明する。膾炙している大隈からのスギ林造成の要望のエピソードにおいても,日光との比較[lxxvi])で代々木の土質からスギ林が不適であることを説いている。また神社林についても本来は人為が介入されない天然林であるべきとし,「この地方の植生を支配した原始林状態」を理想の神社林とする設定から,シイ,カシ,クスノキを導いたとする[lxxvii])。本多が述べる樹種の条件を見ると,「特に市外の地より来る煤煙塵芥等に抵抗力の強き樹種たること」との言及はあるが,他方で「其土地に適し子々孫々永久に亘って鬱々として繁茂する樹種を選定せねばならぬ」としたうえで,東京の「森林植物帯」からシイ,カシを中心とする混淆林が自然の林相であると述べている75)。また,「原純林」と比べて混淆林は抵抗力が大きく最も理想的な植樹法であると述べていることは注目するべき点であり,上原が著した大隈との逸話でスギ林を退ける際に,純林は病虫害への抵抗力が弱いとしたと紹介される場合もある。

以上のように,スギ林が成立しない環境条件についての力点や,シイ,カシ,クスノキを将来の主林木と定めた理由については,特に本郷と上原の間で違いを見せる。具体的には「永遠の杜」をコンセプトに林苑計画を立案したかである。上原は現在で言うところの潜在自然植生の極相林が神社の森のあるべき姿であるとし,そこからの逆算で樹種を選定したように述べている。しかし,この説明にクスノキは適合しない。当時からクスノキは「植物帯上稍北方に過ぎ」と認識されていた。また,材料として豊富であったのではなく,むしろ苗木の入手は困難で売品も無かった。さらに,林学系関係者からも反対論があり,シイ,カシのみとする意見もあったようである。しかし,上原は日比谷公園での実績をふまえて,クスノキ本意を主張して譲らなかったとする[lxxviii])[lxxix])。本郷は東京市内,上野公園や市ヶ谷亀岡八幡宮等の老樹の存在から幼時に保護を加えればクスノキが生育することが証明されているとしたうえで,日本における最長樹で雄大なる樹形が明治神宮に相応しいと記述している[lxxx])。ここからは神社風致という観点からクスノキが主林木の1つとして選ばれていることがわかる。

ところで,まさに林苑計画の立案中に作成された未完の資料であり当時の議論を伝えるものとして本多を中心にまとめられた『明治神宮内苑林苑部実施設計』71)がある。ここに樹種の選択理由が記されているが,常緑で壮麗に成長し,天然下種更新によって林相を安全に維持出来るという条件の下で樹種選定が行われたことがわかり,本郷の伝えるところが実態に近いものとなっている。ここでは上原の言うような観念的な議論はされておらず,神社林のあるべき姿については「一般社寺林の原則として,神宮後方及び両側の三面は四季を通して幽邃荘厳神聖にして,所謂神々しき状態を永久に保たざる可らず。特に宮の後方はなるべく奥深く且つ森林として昼尚区悪,何れの方面よりも林内を見透かし得ざる如くなすを要す。」として,『社寺風致林論』とほぼ同じ記述であるが,その中身が変化したものとなっている点は興味深い。

すなわち,永続的に失敗が許されない事業において,健全な生育のために耐煙性の強い樹種でありかつ,維持管理を含めた経費の先行きが不透明で森林経営が不可能であると想定される中において,「森林植物帯」に合致して安全に生育し,かつ鬱蒼とした暗い林相を維持するために天然下種更新可能な樹種として,シイ,カシ,クスノキが選ばれたとすることは妥当な見立であると考えられる。このように林苑計画策定当初においては,潜在自然植生の極相林が神社林のあるべき姿という議論は無く,適地適木という条件でふるいにかけ,特に風致の観点からクスノキが選ばれている。

潜在自然植生の極相林を神社林のあるべき姿とする観念的理論の導入については,1915年から3年間断続的に行われた上原による日本全国の44ヶ所[lxxxi])以上の神社の現地調査を経て論理構築[lxxxii])され,その後本多の言説にも部分的に採り入れられていったという見解を提示したい。そして,この理論は後に『社寺の林苑』[lxxxiii])などで本郷も採用したように,既に指摘されていることであるが,並行的に学術的構築が進められた造園学の中で整えられていった。

6.造営における社殿,苑路やゾーニングの変遷

(1)神社奉祀調査会時代の変遷

 以上のように,明治神宮の林苑の設計思想に焦点をあててその経緯を見てきたが,本章では一部重複する部分もあるがフィジカルプランの変遷の経緯を整理したい。

管見の限りで確認出来る最初の設計図案が,図-6である。練兵場の一部が既に境内予定地に取り込まれていることや,1914年6月の特別委員会報告,第6回調査会で資料にある建築物と名称[lxxxiv])が一致しており,その際に提出されたものと思われる。注目すべきは社殿の位置,参道の形状であろう。既に見たように,鎮座地決定時の社殿の配置案については,地形と後背林との関係から決定されていたが,社殿位置決定後の第6回調査会では外苑予定地の青山練兵場と接続する参道の付け方や正参道をどう設定するかが問題となっている。当初は青山練兵場から現在の代々木口へと接続する予定であり,博覧会のために既に土地も確保されていた。伊東も当初は現在の代々木口から入る北参道を正参道とていたことを1920年に述べており27),このエピソードはこれまでも伊東の考案の展開として取り上げられてきた[lxxxv])。しかし,第6回調査会では,特別委員会において南方面から入るものを正参道,北参道を裏参道とすることしたと説明されている[lxxxvi])。伊東は調査会と特別委員会において6回図面を書き直したとしているが58),特別委員会の初期の議論を辿れば,苑路についても相当の議論があったものと思われる。

図-9 明治神宮現状境内略図
出典:建築雑誌341『明治神宮寶物殿建築意匠の懸賞競技』 
図-10 明治神宮境内予定略図
出典:建築雑誌341『明治神宮寶物殿建築意匠の懸賞競技』 
図-11 明治神宮境内及附属外苑之図(1916)より内苑部分の抜粋
図-6 代々木御料御境内,社殿並附属建物配置図(第一案)
図-7 伊東忠太が特別委員会で提示した南北参道推定図(ベースは図-608D0C9EA79F9BACE118C8200AA004BA90B020000000800000004000000F3560DFF36000000 )
図-8明治神宮境内及附属外苑之図(1914)より内苑部分の抜粋

第1回特別委員会において,南の方向から入るものを表参道,北の代々木口から入るものを裏参道としたものが伊東から提示されている[lxxxvii])。北参道については,「社殿が南を向いて居るのに西口から入るのは不自然」という批判は妥当であるとの伊東の発言や「妙に後ろの方から入りまして,迂回して正面に出る」[lxxxviii])といった発言があり,清正井の御手洗場の構想があったことや後述する御苑内を貫入し菖蒲田から清正井を経て社殿へ到達する案に反対したという折下のエピソードからすれば,図-7のような参道案であったのではないかと思われる。伊東案に対して,直線の参道の方が森厳を増し,また迂回的な参道とした場合,参拝者は成るべく近い道を通ることになるため,儀式時のみの使用となるとした懸念が建築学の関野より表明されている。第2回特別委員会において南参道を正参道,北参道を裏参道とすることが決定されているが,ここでは鬼門についての議論もある。伊東は,「鬼門説はどうも理屈に合うまい」として,南方から入ることは「至極正当の意見」であり,正門としたほうが自然と述べるが,鬼門を理由に北参道案を退けることには反対を表明する。これに対して,井上幹事が南北の両面に門を作ること,正門は南とすることとして,「鬼門説と非鬼門説」を引き取り,決定を見た88)

本多らの調査を加えた調査会の最終案として,1914年11月の第8回調査会の前後に作成されたと思われるものが『明治神宮境内建物配置予定図』であり,『明治神宮境内及附属外苑之図』(図-8)である。図-8からは『内苑計画考案』にある「第一区林地」と「第二第三区林地」のゾーニングが判明する。社殿の後背地が第一区となっており,『内苑計画考案』における記述内容と整合する。また,北参道の経路・形状が変化していることがわかる。

(2)造営局時代の変遷

造営局は1915年5月の組織であったが,測量をはじめとして実施設計に向けた作業は調査会から継続している。調査会委員以外は内務省神社局の嘱託として作業に携わった[lxxxix])。そして,1915年4月中旬までに社殿の位置が変更されている[xc])。この背景には,測量の結果,境内の最高地点が修正されたことが考えられる[xci])。1915年5月の建築雑誌の宝物殿コンペ募集記事には『明治神宮現状境内略図』(図-9),『明治神宮境内予定略図』(図-10)が付されている。現在の社殿位置を手掛かりに図-8と図-10を比較すれば,社殿の位置が北上していることが分かる。なお,図-10は確定案でないとの但し書きがされている。この北上に伴い,社殿の北西部を遮蔽するものがなくなり[xcii]),ガスタンクが見えることとなった。この対策としても盛り土がされることとなり[xciii]),その予定等高線が書き込まれている。

また,原煕や折下吉延らが造営に加わり,御苑の棄損に反対したことが社殿位置の変更に影響した可能性がある。田阪美徳は,御苑での勤務経験もある折下が,御苑内を貫入し菖蒲田から清正井を経て社殿へ到達する案に率先反対したことを伝えている[xciv])。この経路を示した一次資料は管見では確認できないが,実施設計にあたって,調査会案に囚われず再度議論が行われたのではないかと考えられる[xcv]。伊東の裏参道の当初案のエピソードについても「当初東北から表参道を通ずるの考案であった」とし,今の代々木口から「S字形の曲線を描いて社殿の東に出て,社殿の第一神門は東に向かって開く」という状況は,図-6と合致しており,ここでいう当初とはこの時点のエピソードであるのではないかと思われる[xcvi])。加えて,伊東が清正井の御手洗場化に拘っていたこともわかる。

さらに,1915年7月14日には「林苑大体計画及社殿位置更定の件」として社殿,参道などについて協議がされた[xcvii])。ここでは,社殿の門が東面から南面へと付け替えられ,それに伴って参道の形状も変更された。この背景には大隈の主張があったとされる。また,社殿の位置が東方に約9間(約16m)移動させられた[xcviii])。今泉によれば,この変更が反映された図面の初出は1915年6月頃に造営局により作成された『明治神宮林苑大体計画図』であるとされる[xcix])。この図面と苑路や建物配置,盛り土の等高線の存在が同様であり[c]),彩色された地図として明治神宮奉賛会発行の『明治神宮境内及外苑之図』がある(図-11)。ここにおいて参道や境内の形状は完成をみた[ci])。社殿北部等の盛り土の等高線が非常に目立つ図であり,造営誌においてはガスタンクの遮蔽のための工事であるとされる。しかし,社殿後背地については,遮蔽のためでなく「神社の後は寧ろ小高くしなければならぬとの見地」[cii])からの盛り土であって,この場所での社殿立地となる以前の『内苑計画考案』時点から計画されていたものである。また,本多は「社殿の周囲殊にその後方にはわけても森森として画尚暗き程度の森林を必要とする」と述べているが75),それに該当する第一区の範囲が拡大するなど,森厳性を高める部分のゾーニングが変更されていることがわかる。

 

7.総合考察

 社会通念上において明治神宮と森は分かちがたい結び付きがあり,森こそが神社の本義であるという考えの出自として位置づけられる明治神宮であるが,本研究では,森は重要な要素であるが,風致を演出する空間的要素は森だけでなく,地形や水系による風致の演出が伊東や本多によって構想されていたことを明らかとし,それらの構想は伊勢神宮や日光東照宮の空間的特徴から着想されていることを指摘した。この検討に付随して,神社にはスギ,ヒノキの巨木が相応しく,シイ等の常緑広葉樹は雑木であり風致に欠けるという認識があったことが改めて確認された。

本多も造営プロジェクトへの参画当初は同様の認識であって,畔上がいうところの森林美学的神社風致論にもとづく林苑計画への到達には助走段階があり,当初はスギ,ヒノキを林冠木とする複層林の林苑が着想されていたことを明らかにした。畔上はその価値観の変化に着目して,明治造営以前のものを「名所旧跡的神社風致論」,造営以降を「森林美学的神社風致論」と呼称しているが,本多の神社風致計画論の転換の要因についても,環境要因だけでなく,明治期の神社風致計画論が持つ限界性があったことを指摘した。具体的には,社会通念上の神社の森の最適解であるスギ林の更新は不可能であり,代替としてのヒノキ林によって風致を維持するものであったことである。いわば社会通念に整合しない神社風致計画論であった。これに加えて,明治神宮の事情として永続性の強調という要請や,森林更新のための施業を維持する経費が見込めないことが影響したと考えられる。経費という点からすれば,なお慎重な検討を要するが,日比谷公園の建設費に対しての園芸学系の福羽[ciii])や林修己[civ])からの批判が作用していた側面もあったと思われる。

神社風致計画論の主眼を社寺風致林の林相をどのように維持するかという点におけば,明治期のものは本多造林学にもとづく「森林経営的神社風致計画論」と呼称でき,明治神宮造営以降は「天然下種更新的神社風致計画論」と呼称できよう。林苑計画策定当初においては,潜在自然植生の極相林が神社の森のあるべき姿という議論は無く,適地適木や天然下種更新の適性,耐煙性を条件に樹種が選定された。明治神宮の森を潜在自然植生の概念という観点からその先駆性を評価することとは別として,潜在自然植生に合致しないクスノキが適地適木の考え方に従い,風致の面から積極的に植栽されたことは,明治神宮の風致を考える際には重要な事柄となると思われる。

明治神宮造営における本多の関与の仕方は本研究の成果の1つである。佐藤昌は『日本公園緑地発達史』において,本多と川瀬が神社奉祀調査委員の特別委員でなかったことを強調しており[cv]),もちろんそれは『造営誌』に記載されていなかったが故であるが,実際には1914年7月より調査会の特別委員に任命され,事務を嘱託していることを明らかにした。正式な委員の任命以前から史跡名勝天然紀念物保存協会や渋沢との関係から内々に明治神宮の検討を行っていたが[cvi]),正式には植栽樹木に関する林学的知見が求められて,明治神宮の造営へ参画した。具体的には境界の土塁上に適した常緑樹の選定,スギ,ヒノキを前提とした神社風致に適した樹種の植栽方法に関する知見が求められていた。森厳・幽邃な“自然”というものは所与のテーマであり,本多が提供したものではなかった。自然という言葉の多義性によって,それらが示すものは厳密には違ったにせよ,神社奉祀調査会の議論においても明治神宮のコードとしての自然性は自明であり,自然性の希求は時代の要求であったと言えるだろう。また,本多の功績は,調査会からの依頼に対する回答であった『内苑計画考案』の内容からわかるように林学者としての働きだけでなく,公園の権威として内苑全体へアプローチをしており,この点がまさに造園学の構築の契機となったと評価できよう。

 いま一つの研究の成果としては,明治神宮造営におけるフィジカルプランの展開過程について一次資料をもとに整理し,可視化したことを加えたい。

8.おわりに

本研究では,明治神宮造営にあたって地形や水系による風致の演出が構想されていたことを明らかとした。このうち水系に関して,参道脇の水流と滝や,清正井の御手洗場化については実現していない。また,社殿背景の盛り土についても,その場所自体が禁足地となっており参拝者には見えないことや,社殿の大きさや地盤のかさ上げもあって,参拝場所からは背景として見えず,造営直後に造営局技手・高橋卯三郎には調和を失くしたと評されている[cvii])。明治神宮の森との不可分性や,神聖・不可侵なイメージの定着過程については,稿を改める必要があるが,その背景には当初構想されていた地形や水系といった人為による操作性の高い演出が試行錯誤の中で結果として後退したことも作用したように思われる。

また,本研究では風致の観点からクスノキが特殊の扱いで主林木として選ばれたことを明らかにした。その結果として現在クスノキが優占する森となっている。しかし,クスノキの天然下種更新は実現しておらず,後継樹の不足が予測されている[cviii])。この点についてクスノキは東京に在来の樹種ではないのでスダジイやシラカシが優占する森林が本来の姿であるとして問題視しない見方もある[cix])。しかし,明治神宮の風致という見地からは,クスノキの更新は今後の林苑の管理方法を巡る論点となりうるものであり,同時にどういった森の姿を目指すのかを巡った議論もまた必要となってくると思われる。

謝辞 明治神宮所蔵資料の閲覧に際しては,明治神宮国際神道文化研究所の今泉宣子氏,戸浪裕之氏に協力頂きました。ここに記して謝意を表します。


[i]) 山口輝臣(2005):明治神宮の出現:吉川弘文館,10

[ii]) 本郷高徳(1940)林苑計画と神社の森:庭園22(7),220-221

[iii]) 宮脇昭(1981):「明治神宮の森」と植生―都市林・鎮守の森としての現代的意義―:グリーンエージ95, 7-12 朝日新聞1984年3月3日 鎮守の森の復権を訴える

[iv]) 濱野周泰(2014):種子植物は森の主役:グリーンエージ487,16

[v]) 松井光瑶(1992):明治神宮の森を訪れて:大都会に造られた森―明治神宮の森に学ぶ―:第一プランニングセンター,22-26

[vi]) 明治神宮造営には,本多静六の造園系統の門下生が参画しており,他に技手として大溝勇,高橋(中島)卯三郎があり,嘱託としては田村剛や中越豊延らがある。田村によれば,駒場の造林学教室の一部屋は「明治神宮の計画が始まると共に,そこはさながら林学系統の造園家が集つて,本多博士の指図の下に計画する所の事務所ともなつた」とされるように,本多門下生の多くが,明治神宮の造営に参画していた。田村剛(1932):我国に於ける造園学の発祥:造園研究4, 83

[vii]) 上原敬二(2009):人のつくった森-明治神宮の森[永遠の杜]造成の記録 改訂新版:東京農大出版会,9-19 原版は1971年出版

[viii]) 畔上直樹(2015):戦前日本における「鎮守の森」論:明治神宮以前・以降 近代神社をめぐる環境形成の構造転換:鹿島出版会,67-100

[ix]) 例えば,佐藤昌は1932- 34年まで滋賀県内務部森林課にて県社の林況調査を実施し,その後任は九州帝国大学卒業で永見健一門下の今井庄五郎であった。佐藤昌(1933):滋賀県に於ける鎮守の森の風致的構成について:園芸学会雑誌4(2),160-167 今井庄五郞(1935):滋賀縣に於ける神社境内外林整備施設:造園研究14,63-70

[x]) 藤田大誠(2013):「鎮守の森」の近現代:國學院大學人間開発学研究 (5), 83-96 同論文では「鎮守の森」をレビューする中で,禁足的な「鎮守の森」イメージとその保全論が1970年代に形成されてきたこと,一方でこれらの動きは 「エコ・ナショナリズム」 に繋がるものとして神社景観の実証的復元を通じた批判的研究の動向があることが述べられている。

[xi]) 今西亜友美・吉田早織・今西純一・森本幸裕(2008):江戸時代中期の賀茂御祖神社の植生景観と社家日記にみられる資源利用:ランドスケープ研究 71(5), 519-524

[xii]) 今西亜友美・杉田そらん・今西純一・森本幸裕(2011):江戸時代の賀茂別雷神社の植生景観と日本林制史資料にみられる資源利用:ランドスケープ研究 74(5), 463-468

[xiii]) 小椋純一(2012):森と草原の歴史―日本の植生景観はどのように移り変わってきたのか:古今書院,256-335

[xiv]) 小野良平(2010):用語「鎮守の森」の近代的性格に関する考察:ランドスケープ研究 73(5), 671-674

[xv]) 畔上直樹(2011):明治神宮内苑造営と「その後」–近代林学・造園学の「鎮守の森」論:神園(5), 119-128 ただし,以降の畔上の議論においてはこの見立てに慎重な姿勢を見せていることは附言しておく。

[xvi]) ここでいう林苑とは,森林部分だけでなく,内苑全体を示す。

[xvii]) 山口輝臣(2005):明治神宮の出現:吉川弘文館,217pp

[xviii]) 大丸真美(1996):明治神宮の鎮座地選定について:明治聖徳記念学会紀要(17),38-66

[xix]) 今泉宜子(2013):明治神宮―「伝統」を創った大プロジェクト:新潮社,351pp

[xx]) 松井光瑶・内田方彬・谷本文夫・北村昌美(1992):大都会に造られた森―明治神宮の森に学ぶ―:第一プランニングセンター,143pp

[xxi]) 上田裕文(2015):森林美学と明治神宮の林苑計画―近代日本における林学の一潮流―::明治神宮以前・以降 近代神社をめぐる環境形成の構造転換:鹿島出版会,211-230

[xxii]) 清水裕子・川崎圭造・伊藤精晤(2006):戦前における「森林美学」から「風致施業」への展開:ランドスケープ研究69(5), 395-400

[xxiii]) 無記名(2017):明治神宮史関係資料翻刻 明治神宮内苑林苑部実施設計:神園(18),126-139 原資料は1916年頃制作。明治神宮造営局林苑課が制作による造営に過程で綴られた現場の記録であり,内苑全体の設計方針から苑内各所の植栽方法等が記載されている。「1.全体の設計,2. 周囲の設計,3.参道,4.苑内道路,5.神林造成の大方針,6.各区の設計 第二区の設計」の6章と附録の樹高及枝張表(農科大学林学科調査)からなる。ただし,各区の設計としつつも,林学系の分担部分の内の本多と田村剛が担当した第二区しか記述が無い。沖沢幸二(2017):明治神宮林苑計画と本資料の意義:神園(18), 140-145

[xxiv]) 明治神宮 http://www.meijijingu.or.jp/, 2019年2月14日閲覧

[xxv]) 山口輝臣(2005):明治神宮の出現:吉川弘文館,108-109

[xxvi]) 東京朝日新聞1912年 8月 3日

[xxvii]) 伊東忠太(1920):明治神宮社殿の建築に就て:建築雑誌 34(409), 533-540

[xxviii]) 明治神宮編(2006):明治神宮叢書第17巻資料編(1):明治神宮社務所,1-280収録

[xxix]) 飯能市立図書館蔵(1913):明治神宮建設請願書写

[xxx]) 神社奉祀調査会会議録(第2-4回):明治神宮所蔵

[xxxi]) 明治神宮造営局編(1923):明治神宮造営誌:明治神宮造営局,30-37

[xxxii]) 神社奉祀調査会会議録(第4回)明治神宮所蔵

[xxxiii]) 本多静六(1912):学理より観たる明治神宮の位置:地球1(8),118-121

[xxxiv]) ただし,この趣旨は都市型立地を批判することにあり,「山水」は自然風景と解すべき用語であり,ことさら水系に着目することは適切でない可能性もある。

[xxxv]) 本多静六(1912):飯能遊覧地計画:飯能遊覧地委員会

[xxxvi]) 東京朝日新聞1912年8月9日

[xxxvii]) 東京朝日新聞1913年12月25日

[xxxviii]) 阪谷芳郎(未定稿):明治神宮奉賛日記:明治神宮叢書第17巻資料編(1):明治神宮社務所,630福羽より,他に小沢圭次郎,林修己,宮島多喜郎,井下清の推薦がある。

[xxxix]) 東京朝日新聞1912年8月7日

[xl]) 東京朝日新聞1913年11月10日

[xli]) 大丸真美(2006):伊東忠太の明治神宮社殿構想–神社建築観の推移:明治聖徳記念学会紀要 (43), 246-273

[xlii]) 神社奉祀調査会会議録(第3回):明治神宮所蔵

[xliii]) 東京日日新聞1914年11月4日

[xliv]) 明治神宮編(2006):明治神宮叢書第17巻:明治神宮社務所,1-280収録 原典は1914年作成

[xlv]) 国立公文書館蔵:神社奉祀調査会経過要領ノ件:纂01333100

[xlvi]) 読売新聞1914年6月20日

[xlvii]) 国立公文書館蔵 簿冊標題:任免裁可書・大正三年・任免巻十八,明治神宮蔵 阪谷芳郎資料第七部 報告事項 1914年10月2日

[xlviii]) 阪谷芳郎(未定稿):明治神宮奉賛会日記:明治神宮叢書第17巻,明治神宮社務所,605には「余・井上・伊東・川瀬・久保田」とあり,東京朝日新聞1914年7月12日には「久保田知事,井上局長,堀田会計課長,伊東・本多両博士,阪谷市長」とあり,読売新聞1914年7月12日には「阪吉委員長以下久保田府知事,本田,近藤,伊東の両博士井上局長堀田会計課長等(ママ)」とある。

[xlix]) 中山斧吉(1920):内苑の献木:明治神宮:101

[l]) 読売新聞1914年7月30日

[li]) 無記名(1914):明治神宮奉祀確定:竜門雑誌318,57

[lii]) 東京日日新聞1914年7月7日 なお,最終的には約12万本が植栽されており,この点からしても30万本という数字は過大であり,専門的議論がなかったとみてよい。

[liii]) 本多静六(1912):社寺風致林論:大日本山林会報.356,1-20

[liv]) 畔上がいうところの『名所旧跡的神社風致論』に基づくものである。

[lv]) 本多静六(1912):神宮域内山林及ヒ神苑ニ関スル意見:神宮司庁庶務課,24ppでは「老杉林間に他の雑木繁茂し…現今林間に於て樟樹の巨大なるものある」と報告され,また神宮域内山林樹木のリストがあり,シイ,カシ類の記述がある。本資料については小野良平氏のご教示・ご厚意による。

[lvi]) 本多静六(1915):実地造林上の注意:大日本山林会報393, 41-45

[lvii]) 明治神宮編(2006):明治神宮叢書第17巻:明治神宮社務所,181-192収録 原典は1914年作成

[lviii]) 明治神宮編(2006):明治神宮御造営の由来を語る:明治神宮叢書17,541-576:速記記録時は1940年10月27日

[lix]) 本多静六(1912):神宮域内山林及ヒ神苑ニ関スル意見:神宮司庁庶務課,24pp 本資料については小野良平氏のご教示・ご厚意による。

[lx]) 本多静六(1912):日光社寺境内風致及並木保存法講演筆記

[lxi]) 本多静六(1914):日光一帯の山水風景利用策

[lxii]) 東京府(不明):社寺風致林取扱法,10pp 

[lxiii]) ここで言う「森林美学」とは,技術的な面ではなく,その価値観に着目し,森林の自然性そのものに価値を見出す枠組みを強調する呼称であることを強調しておきたい

[lxiv]) ただし,日光には寺院も含まれている。

[lxv]) 本多静六(1900):日本森林植物帯論:本多静六, 89 pp

[lxvi]) 陰樹にして喬大に生長せず常に枝を下方より出す点を評価している。

[lxvii]) 春日大社を引き合いに出しつつ,後継樹がある場合には,心材が腐朽する前に伐採利用することが説かれて,「風致林の安全永続上必要なるのみならず社寺の収益場にも多大の効能有りて伸びて一般国家の経済上にも極めて有益」とまで述べられている。

[lxviii]) 東京朝日新聞1912年8月9日

[lxix]) 本郷高徳(2012):明治神宮史関係資料翻刻 本郷高徳『吾が七十年』:神園(8), 163-193 原資料は1947年執筆

[lxx]) 上原敬二(2009):人のつくった森-明治神宮の森[永遠の杜]造成の記録 改訂新版:東京農大出版会,6-19 

[lxxi]) 無記名(2017):明治神宮史関係資料翻刻 明治神宮内苑 林苑部実施設計:神園(18),126-139 原資料は1916年頃制作

[lxxii]) 造神宮使庁技手の中矢禮行であろう。

[lxxiii]) 読売新聞1915年3月4日

[lxxiv]) 大正4年4月調製と書かれている。明治神宮叢書13巻所収

[lxxv]) 本多静六(1920):神宮の神社林に就いて:明治神宮:高山房,113- 121

[lxxvi]) 秋田の場合もある。上原敬二(1983):この目で見た造園発達史:「この目で見た造園発達史」刊行会,176

[lxxvii]) 上原敬二(2009):人のつくった森-明治神宮の森[永遠の杜]造成の記録 改訂新版:東京農大出版会,6-19 

[lxxviii]) 上原敬二(1979):談話室の造園学:技報堂出版,124

[lxxix]) 上原敬二(1983):この目で見た造園発達史:「この目で見た造園発達史」刊行会,177-180

[lxxx]) 本郷高徳(1921):明治神宮御境内林苑計画:明治神宮叢書第13巻:447-678

[lxxxi]) 日前神宮・國懸神宮(和歌山県)は1ヶ所として算出した。

[lxxxii]) 論文として次のものがある。上原敬二(1917):神体林神社に就て:山林420,8-32 上原敬二(1918):神社境内林論:山林424,61-82 上原敬二(1918):神前植栽と神木:山林429,10-16

[lxxxiii]) 本郷高徳(1929):社寺の林苑:雄山閣,181pp

[lxxxiv]) ⑴本殿 ⑵祝詞舎 ⑶中門 ⑷拜殿 ⑸廻廊⑹神饌殿 ⑺舞殿 ⑻直會殿 ⑼細殿 ⑽宿衞屋 ⑾祓舎 ⑿手水舎 ⒀内外玉垣 ⒁東神門 ⒂西神門

⒃鳥居 ⒄神庫 ⒅參集所 ⒆社務所 ⒇祭器庫(21)制札場(22)車馬舎

(23)社號標

[lxxxv]) 大丸真美(2006):伊東忠太の明治神宮社殿構想-神社建築観の推移:明治聖徳記念学会紀要 (43), 246-273

[lxxxvi]) 図面(図-6)においても北参道の代々木口から大きな曲線部分と南参道を比較すれば,南参道の幅がより広いことが読み取れる。

[lxxxvii]) 神社奉祀調査会特別委員会議録(第1回)

[lxxxviii]) 神社奉祀調査会特別委員会議録(第2回)

[lxxxix]) 本郷高徳(2012)明治神宮史:関係資料翻刻 本郷高徳『吾が七十年』:神園 (8), 163-193,上原敬二(2009):人のつくった森-明治神宮の森[永遠の杜]造成の記録 改訂新版:東京農大出版会,8 無記名(1920):内苑造営初めのころには:明治神宮:高山房,217-222

[xc]) 東京朝日新聞1915年4月23日

[xci]) 東京日日新聞1915年6月23日には,社殿の立地は境内最高の地点であると見出しで報道されているほか,伊東忠太(1920):明治神宮社殿の建築に就て:建築雑誌 34(409), 533-540によれば,伊東は社殿を聳え立たせることを意図しており,社殿の基礎を180mの地点と定めかさ上げしており,社殿の高さにこだわっていたものと考えられる。

[xcii]) 第3回神社調査会において,伊東はこの理由のために,当該場所への社殿の立地が不適であると説明していた。

[xciii]) 造営誌においてもガスタンクのために盛り土されたと説明されている。

[xciv]) 前島康彦編(1967):折下吉延先生業績録:折下先生記念事業会,38-39

[xcv]) 上原も調査会時代には机上案であったため,実施設計時に多く修正されたことを伝える。上原敬二(2009):人のつくった森-明治神宮の森[永遠の杜]造成の記録 改訂新版:東京農大出版会,68

[xcvi]) その後,文章は「第一神門が東面するのは適当でない,矢張り南面するのが本当であるという説が認められたので,更にS字形を延長して螺旋形に迂回し南より参進するの工夫を試みたが,地勢上これは無理であるので,その後評議の結果,表参道は南から通じ,北よりするものを裏参道とすることに改訂したのである。」と続き,時系列的にはやや後の事情が説明されている。

[xcvii]) 沖沢幸二(2017):明治神宮林苑計画と本資料の意義:神園(18),140-145

[xcviii]) 明治神宮蔵 阪谷芳郎資料第七部 報告事項案1915年9月28日

[xcix]) 今泉宜子(2013):明治神宮―「伝統」を創った大プロジェクト:新潮社,351pp

[c]) 筆者が明治神宮内において,目視照合で確認した。

[ci]) この後南参道附近と代々木練兵場との再度の土地交換が行われた。

[cii]) 溝口白羊(1920):明治神宮紀:日本評論社出版部,96p 本書は田澤義鋪, 大江新太郎, 折下吉延, 本郷高徳, 井上清が説明・校閲している準公式書というべきものであり,記述の信頼度は高い。

[ciii]) 福羽逸人(2006):福羽逸人回顧録:国民公園協会新宿御苑,118-121

[civ]) 林修巳(1910):庭園築造の心得:建築雑誌280,34-36 林は「美しい絵を現わすが主眼植樹を森林学に拠るは誤り」として批判している。

[cv]) 佐藤昌(1977):日本公園緑地発達史 下巻:都市計画研究所,357

[cvi]) 上原によれば1914年の春頃より本郷,上原と共に構想していたとされる。「やみくもに線を引きまわしていた」と述べられるように,内苑全体の考案をしており,森のみに着目したものではなかったと考えられる。) 上原敬二(2009):人のつくった森-明治神宮の森[永遠の杜]造成の記録 改訂新版:東京農大出版会,7-9 この他,次の論文を執筆している。本多静六(1912):明治天皇記念の行道樹の植栽を勧む:山林360,1-7

[cvii]) 高橋卯三郎:明治神宮記:明治神宮:嵩山房,1-45

[cviii]) 中武視典(2014):神宮の森の成長を毎木調査から読む:グリーンエージ487, 10-11

[cix]) 新里達也(2014):百年の森に向けた第二次境内総合調査:グリーンエージ487, 8-9

霧島錦江湾国立公園についてコメントした新聞記事が掲載されました。

宮崎日日新聞から、霧島国立公園の成立に関して取材を受けました。学生時代に執筆した論文ですが、地域で興味を持ってもらえることがうれしく、また、記事にも書かれていましたが、レンジャーの方にも読んでいただいたようで、研究した甲斐があったなという気分です。
 当時は、この後、地域開発と国立公園という形で発展させていこうと考えていましたが、結果的に田村剛の計画思想と国立公園の実体化プロセスに焦点を当てた形で学位論文をまとめることになり、当初の考えはまだ宿題のままです。

このほか、韓国・ソウル大での留学中に修正原稿の提出をしたり、ランドスケープ研究がオンライン査読システム導入の初年度であり、いろいろとトラブルがあったなどということが思い出されました。

ランドスケープデザイン誌に掲載されました。

北大・上田先生と共同で執筆した明治神宮に関する記事がランドスケープデザイン誌に掲載されました。学生の頃から眺めてはいましたが、華やかな雑誌なのであまりご縁がなさそうだと思っていましたが、相当なニッチな連載枠もあるようで、この度掲載いただきました。

image

https://www.marumo-p.co.jp/SHOP/LD133.html

Tips 持続的森林圏経営論2020

オープンデータの諸問題

1.国土数値情報のデータが文字化けする

https://nlftp.mlit.go.jp/ksj/index.html

対象方法:ダウンロードしたデータを解凍する。

フォルダの中に、 [ANSI 932〕とだけ記入した新規テキストを作成する。


ファイル名を、shpファイルと同じものとし、拡張子を.txtから.cpgに変更する


再度、zip化して、ArcGIS Onlineへ追加してみてください。

2. ArcGIS OnlineからダウンロードしたCSVが文字化けする

下記サイトを参考に対処してみてください。

https://excel.nj-clucker.com/view-unicord-csv-data/

伊勢志摩国立公園

満喫プロジェクトでステップアッププログラムを実施している伊勢志摩国立公園に行ってきました。
image
国立公園の多面的役割は再検討すべきであり、レジャー・レクリエーションとの相互関係からみたランドスケープ史の整理や、地域社会と国立公園計画などやりたいことが見えてくることを実感しました。そのための時間と仲間を確保せねばとも同時に思わされました。