里見公園(千葉県市川市)

里見公園(千葉県市川市)

関東地域のランドスケープ遺産の紹介の第一稿として千葉県市川市の里見公園を取り上げたい。この公園は、江戸期の名所の系譜を引き継ぐ公園と位置づけられるが、ひとまず下総台地の際の河岸段丘上にあり、眼下に江戸川を見下ろすという立地を示すことによって、ランドスケープ遺産としての一定の関心を得られるのではと考える。

里見公園のランドスケープ遺産としての特質は、様々な価値を持つ空間が体験可能な点であって、それが公園とされているところにあると考えるが、まずは名所としての成立の過程をいくばくかの推論も交えてみていきたい。

 里見公園の一帯は、例えば歌川広重の『名所江戸八景』においては「鴻之台とね川風景」として、『冨士三十六景』においては「鴻之台とね川(こうのだいとねがわ)」として現れる。

http://www.city.funabashi.lg.jp/shisetsu/toshokankominkan/0001/0005/0002/fukeiga7.html
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_fujisan/03fuji/4th_fujisan_03fuji_11.htm

近~中景に利根川(現江戸川)と農村が、遠景に富士山が描かれるように、江戸を眼下に収める視点であったことが分かる。また、松がデフォルメされた崖の上に描かれている。実際、1960年代頃まではシンボリックな「物見の松」が存在していたように、江戸川対岸からの視対象としての位置づけもあったと考えられる。このように、視点と視対象の双方を兼ねる名所であったといえよう。

『江戸名所図会』においても「国府台断岸之図」「国府台 総寧寺」「国府台 古戦場跡」として里見公園含む一帯の地が取り上げられているが、ここからはやや込み入った経緯に立ち入らざるを得ない。

 ここで示される古戦とは、16世紀に里見氏・後北条氏の間において2度にわたった国府台合戦といわれるものであり、「昭和 33 年、市川市はこの由緒ある古戦場を記念するために、一般の人々の憩いの場として里見公園を開設しました」と紹介されるよう、合戦とその舞台である国府台城が里見公園の設立の契機である。河川そばの高台という、周囲を“見る”にふさわしい要衝という立地が国府台城を築城させ、さらに合戦の場とさせたのであろう。国府台城自体は1479(文明11)年に太田道灌・資忠に築城されたものであるが、土塁の跡など現在もその痕跡を見ることができる。明戸古墳の石棺はこの築城の際に露出したものとされるほか、国府台城の縄張り自体が、明戸古墳を利用しており、歴史のレイヤーを体感できる場所でもある。

国府台合戦は2度とも後北条氏の勝利に終わり、徳川家康の関東入府に伴い、江戸俯瞰の地であることから廃城とされた。河川のほとりの高台という“見る”ことのできる要衝ゆえの措置である。その後、江戸幕府は1663年に関東僧録司に任命される格式を持つ総寧寺をこの地に移転させる。関東僧録司は端的に解釈すれば、江戸幕府の統治のツールの1つである。江戸を見るという場所に重要な寺院を配置するという意図を汲んでもよいと思われ、“見る”ことがこうした措置を生み出しているのであろう。

さて、公園の名称でもある里見氏とのゆかりが思い出されるのは、19世紀まで下らねばならない。1829(文正12)年になってようやく里見諸士群亡塚、里見諸将群霊墓、里見広次公廟が建てられているのであるが、この突然の関心の背景には滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」があるものと推察される。国府台はこの物語のクライマックスの舞台の1つなのであるが、史実とは異なり、物語の中では里見軍は勝利を収めている。訪れる人々は何を見たのであろうか。その“まなざし”は気になるところである。

 おおよそ以上の経緯により、里見公園の地は江戸近郊の名所として成立したと思われるが、そこには地形が生み出した“見る”ということが通底していたように思われる。「情報として見る」「実景を見る」「イメージを見る」など性質の違いがあり、時代や文化の中でそのまなざしが形成されていったといえよう。名所としての系譜は近代においても続き、1922年には里見八景園という遊園地があり、今も園内にはその庭園の名残が残されている(写真の滝組や橋など)。都市公園となっている現在は、約200本のソメイヨシノが植えられた地域の花見の場であり、2003年には市川市制70周年を記念してバラ園が設置されたように、市川市のフラッグシップ公園の1つでもある。

 最後になるが里見公園とは、公園というものを再考させてくれる良い事例である。というのも、この公園は地域の歴史を記念するために設置されているのであるが、この際、公園は受け皿としての役割を求められている。江戸期の名所の系譜を継ぐ景勝地であり人々のレクリエーションの舞台であったことを背景にしつつ、地域の歴史を市民が体験・共有出来るという場とするために選ばれたのが公園という制度である。一方、その受け皿も形を持っているようである。バラ園が設置されるなど都市公園化が進み、土塁なども静的な保全がされているわけでなくBBQの場となっており、器に合わせて空間も形を変えている。歴史にフォーカスを合わせるにしても、1000年を越える時間軸の中で過去を幻視するにもなかなか焦点が合わせづらい。実際の操作・保全という立場なるとそれは増幅されそうであるが、それもまた公園の面白みであるようにも思える。とはいえ、里見公園からの眺めの実景自体は変化しており、点景ではあるが重要な風景要素であった舟を見ることはできない。また、”見る”、あるいは”見下ろす”価値の相対的な低下がある中で、里見公園は”見る”名所の現代的価値を再考すべき事例でもあろうと思われる。

 余談ではあるが、この地が里見公園と称されたのは、市川市の公園指定より古い。里見八景園の設置以前にもこの地が「里見公園」と認識されていたことが、1924年4月14日の朝日新聞から分かる。「公園」という用語が誰もが立ち入れる「景勝地」として理解されていた証左のようにも思える。また、1925年4月25日の読売新聞では、里見八景園が通行料を取ることに批判的な意見が載せられている。これらには公園という認識を巡る諸相が垣間見え、それらを明らかにする公園史の拡充が望まれるように思われ、ランドスケープ遺産もその一環となることが期待されているのだろう。(東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林 水内佑輔)  

参考

市川市役所(1935):市川市要覧:房総日日新聞社

1924年4月14日:朝日新聞

1925年4月25日:読売新聞

http://www.city.ichikawa.lg.jp/gre04/1111000001.html

http://www.city.funabashi.lg.jp/shisetsu/toshokankominkan/0001/0005/0002/fukeiga7.html

http://www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_fujisan/03fuji/4th_fujisan_03fuji_11.htm

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